南朝方は名和長年・結城親光・千種忠顕のほか、北畠顕家・新田義貞らが1338年(延元3年/暦応元年)までに次々と戦死し、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。1348年(正平3年/貞和4年)には四條畷の戦いで楠木正成の子楠木正行・楠木正時兄弟が足利方の高師直に討たれ、吉野行宮が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。しかしその後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事の高師直が対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮(大阪市住吉区)とする。
1351年(正平6年/観応2年)には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏し、年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立した。これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して足利義詮を追い、京都を占拠して神器も接収する。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。
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南朝の北畠親房は関東地方で南朝勢力の結集を図り、篭城した常陸国小田城にて南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆する。1339年(延元4年/暦応2年)に後醍醐天皇が死去すると親房が南朝の指導的人物となるが、親房が1354年(正平9年/文和3年)に死去すると南朝はまた衰微し、幕府内での抗争で失脚した細川清氏が楠木正儀らと南朝に帰順して一時は京都を占拠するものの1367年(正平22年/貞治6年)に敗れ、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなり、足利義詮時代には大内弘世や山名時氏なども帰服する。義詮の死後は、足利幕府は幼い将軍足利義満を補佐した管領細川頼之の指導により、南朝方の中心的武将であった楠木正儀(正成の子)を帰順させるなど対南朝工作を行い、幕府体制を確立する。