2009年06月30日

発展してきた日本の伝統医療は

このように発展してきた日本の伝統医療は、明治時代以降導入したヨーロッパ医学と区別する必要性から、皇方・皇漢方・和方・和漢方・東洋医学などと多くの呼び名が試行されたが、江戸時代に蘭方に対して用いられた漢方という名が、幕末よりほぼ一貫して一般的であると言える。漢方には前述のように本来鍼灸も含むが、現在漢方薬による治療のみをさすことが多い。日本においては鍼灸は医師・鍼灸師がおこない、漢方薬は医師・薬剤師がおこなう分業になっている事もその一因と考えられる。
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東医学:朝鮮半島で発達した中国医学系伝統医学の呼称(北朝鮮では1992年までこのように称していた)。
高麗医学:北朝鮮での呼称。1993年に東医学から改称した。
韓医学:東医学と同じものの韓国における呼称。韓方医学とも呼ぶ。
韓国では、現在通常の医師の他に伝統医学専門の医師(名称:韓医師)を養成している。中国における中医師を国策から模倣したものであるが、内容的には、ほぼ戦後成立した中医学の模倣であり、独自色は少ない。建前としては、『東医宝鑑』という医書を土台としていると主張している。『東医宝鑑』は、中国の逸書を含み、日本における医心方に似た位置づけの医書で、文献学的に価値があるとされている。 韓国の伝統医療分野の研究者は、日本、中国両国に対して強引に起源を主張する傾向があり、やや忌避されている。

2009年06月12日

門脈圧亢進症(もんみゃくあつこうしんしょう)

門脈圧亢進症(もんみゃくあつこうしんしょう)は、門脈圧が上昇する疾患群。

門脈圧が上昇する病気をまとめて門脈圧亢進症と言う。

腸管から吸収された栄養や毒素は、門脈系を通って肝臓内で処理されたのち、下大静脈を通って全身へと送られる。肝硬変などにより門脈圧が上昇して逃げ場を失った血流は、臍静脈、左胃静脈、下直腸静脈等を迂回して肝臓を介さずに直接体循環へ流れる。本来の道筋をショートカットする事を短絡(シャント)と言い、門脈系から門脈を経ずに体循環へ流れる事を門脈体循環短絡という。

門脈は消化管から肝臓へ流れる血管であり、肝臓の前、肝臓の中、肝臓の後ろの血管が詰まることで門脈圧は上昇する。肝臓の前を肝前性、肝臓の中を肝内性、肝臓の後ろを肝後性、の門脈圧亢進症と言う。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー

門脈は消化管から肝臓へ流れる血管であり、肝臓の前、肝臓の中、肝臓の後ろの血管が詰まることで門脈圧は上昇する。

肝前性 : 肝外門脈閉塞症、門脈欠損症
肝内性
前類洞性 : 特発性門脈圧亢進症、日本住血吸虫症
後類洞性 : 肝硬変
肝後性 : バッド・キアリ症候群、右心不全
バッド・キアリ症候群(Budd-Chiari症候群、Budd-Chiari syndrome)
バッド・キアリ症候群(ばっど・きありしょうこうぐん)は、肝静脈が閉塞したために門脈圧が高くなる症候群。
原因
抗リン脂質抗体症候群 : 抗リン脂質抗体症候群は深部静脈血栓症を起こして肝静脈が閉塞される。

2009年06月08日

観応の擾乱と南朝勢力の衰微

南朝方は名和長年・結城親光・千種忠顕のほか、北畠顕家・新田義貞らが1338年(延元3年/暦応元年)までに次々と戦死し、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。1348年(正平3年/貞和4年)には四條畷の戦いで楠木正成の子楠木正行・楠木正時兄弟が足利方の高師直に討たれ、吉野行宮が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。しかしその後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事の高師直が対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮(大阪市住吉区)とする。

1351年(正平6年/観応2年)には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏し、年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立した。これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して足利義詮を追い、京都を占拠して神器も接収する。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。
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南朝の北畠親房は関東地方で南朝勢力の結集を図り、篭城した常陸国小田城にて南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆する。1339年(延元4年/暦応2年)に後醍醐天皇が死去すると親房が南朝の指導的人物となるが、親房が1354年(正平9年/文和3年)に死去すると南朝はまた衰微し、幕府内での抗争で失脚した細川清氏が楠木正儀らと南朝に帰順して一時は京都を占拠するものの1367年(正平22年/貞治6年)に敗れ、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなり、足利義詮時代には大内弘世や山名時氏なども帰服する。義詮の死後は、足利幕府は幼い将軍足利義満を補佐した管領細川頼之の指導により、南朝方の中心的武将であった楠木正儀(正成の子)を帰順させるなど対南朝工作を行い、幕府体制を確立する。

2009年04月24日

全地球規模の平均海水準

全地球規模の平均海水準は、固体である地殻表面の形状と液体である全海水の体積により定まる。例えば近年の地球温暖化問題で考慮すべき数千年から数万年の時間スケールでは地殻形状変化は小さいと考えられるので、海水準の変動のほとんどは全海水の体積変化によると見なせる。そして全海水の体積変化は、全海水量の変化と、温度による体積変化すなわち熱膨張の効果の2つからなる。全海水量の変化は主に陸上の氷との相互変換による。流氷や北極海の氷山のように海面に完全に浮いている氷は、融解しても全海水の体積を変えないので、正確には全海水量とは液体である海水と完全に浮いている氷との合計量というべきである。

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長い時間軸では海洋の形の変化と陸海分布も海水準を決める要因になる。また地球内部から地表への水の出入りによる、地表水の全質量の変化が要因となることもある。
地球の長い歴史の間では、大陸移動により陸の配置が現在とはかなり違った形状であった。またプレートテクトニクスの観点からは、海洋プレートの生産が活発になると海洋底が拡大するため(現在のインド亜大陸とユーラシア大陸のように大陸同士の衝突も起きた場合)海洋の面積が増え、相対的に海水準が低くなるという説もある。
大陸地殻が極付近に大量に集まった時代は、堆積物の記録から氷期の間著しく海水準が低かったことがわかる。これは極域の陸上には雪や氷が集積できるからである。陸塊が赤道付近に密集している時期には、氷期(寒冷期)が海水準に与える影響は小さい。しかしほとんどの地質時代、長期間の平均的な海水準は現在より高い(グラフ参照)。現在よりも平均的な海水準が低かったのは、2億5千万年前のP-T境界(ペルム紀/三畳紀境界)付近の間のみである。

過去数百万年の新生代氷河期における氷期-間氷期サイクルでは、海水準は100m以上の変動を示している。主に海から蒸発した水が(ほとんどは北半球で)氷床として固定され成長する時に海水準が低下、後退するときに融解水が海洋に供給されることによって海水準が上昇するからである。現在のグリーンランドと南極の氷床が溶けると、海水準はおよそ80m上昇すると予測されている。

2009年04月06日

映画音楽

映画音楽(えいがおんがく)とは、映画の中で使用される音楽をいう。映画作品においては脇役的な存在と思われがちであるが、その作品を通して貫かれている主題、登場人物の感情や性格、場面の状況などを、音楽という抽象的な表現形式によって視聴者に伝達する、重要な役割をもつ。

映画に音声がついたのは1920年代にトーキーが発明されてからである。しかし、それ以前のサイレント映画を上映する際にも、映画館内でピアノなどによる音楽を流していた。時には、予算のある映画の場合、オーケストラピットでフルオーケストラの伴奏がつくこともあった。

世界で最初の映画音楽は1908年、サン=サーンスが「ギーズ公の暗殺」(アルベール・カルメット監督のサイレント映画)のために作曲した音楽と言われる。他にも、ショスタコーヴィチが1929年に「新バビロン」、エリック・サティが1924年に「幕間」を作曲するなど、初期の映画音楽はクラシック音楽の作曲家が主な担い手であった。

日本では山田耕作が1922年から1924年に昭和シネマ制作の「霊楽堂」に付けたのが最初である、といわれている。

最も有名な映画音楽家はアメリカのジョン・ウィリアムズであろう。日本では宮崎駿や北野武の映画を担当する久石譲、ゴジラのテーマ曲を作曲した伊福部昭などがよく知られている。また、坂本龍一、武満徹などは海外でも評価が高い。

作曲の過程 [編集]
一般的に映画における音楽は、メインテーマと呼ばれる最も重要視される音楽を軸に構成される。このメインテーマは、場面に応じて様々に変奏・変容されていく。これによって映画全体の音楽的統一感を演出する。ただし、映画全体の音楽設計とは無関係に興行上の理由から人気歌手の歌が挿入曲として使われたり、エンディングのクレジットタイトルバックに流れたりする場合もある。映画(TVドラマなども同様)音楽では題名は特に付けられずM1, M2という風に機械的に番号が振られ、それが識別符号となる。サウンドトラックCDには曲名が付いている場合があるが、これはCD発売に当たってM1, M2では具合が悪いために後付された物である。作曲家は各場面の長さ(尺数)に応じて音楽を作曲するが、演奏時間は演奏テンポによって左右されるため、演奏家は実際の場面と厳密に同調した演奏を求められる。また音楽の焼付けはタイムコードのシンクロン・ポイントによって正確に場面と音を合わせられる。

様々な音楽的知識が必要とされ、尺数に応じた的確な表現、脚本から登場人物の感情などを読み解く能力など単に音楽的感性や才能があるだけでは務まらない仕事である。従ってポップス系の作曲家(譜面すら読めない人もいる)よりは、専門的な知識が豊富なクラシック系の作曲家が担当することが多い。しかし、最近では映画音楽に求められるものが変化しており、ポップス系出身の作曲家(ハンス・ジマー率いるリモート・コントロールなど)の台頭が大きい。また映画の多くがハリウッドの手法を基本としているので特に英語の完全な読解力は必携である。

実際の作曲に当たっては、時間がある場合は基本的に監督と作曲家がどのシーンにどんな音楽が必要か打ち合わせをする。この際、既製曲を監督のイメージとして映像に当てはめたものを見せる場合が多い。これをテンプトラックというが、作曲家からは功罪が指摘されている。テンプトラックによって音楽的素養がない監督でもイメージを伝える事が出来る反面、それに固執するあまりテンプトラックにそっくりな曲を書くように強制される場合があるからである。さらには作曲家本人の過去作をテンプトラックに使われた場合、作曲家は元のイメージとの差に混乱する場合もある。 実際に完成した映像に音楽を割り振るに当たっては、音楽編集者(ミュージック・エディター)が行い、作曲家の意図とは異なる音楽を割り振る場合もある。このため映画音楽のほとんどがワーグナーやR・シュトラウス、ホルスト、プッチーニ、ストラヴィンスキーなどの既成の作品の亜流である場合が多く、それが音楽自体の芸術性の低下に繋がっている。

最近は時間の節約などからPC接続のキーボードから作曲家が既にできた映画作品を見て即興音楽で弾いてタイムコードを目印に打ち込むことが多い。従がって映画音楽を一晩などの短時間で仕上げることもあり、即興の技術はどの映画作曲家にとって必携である。それがキューベースなどのプログラムに蓄えられて後で細かい音符など修正ができるので、オーケストラを用いないで安上がりにかつ即席に音楽を仕上げることができる。後でその音楽を採用するかどうかは監督の意思によるが、音楽の声部などを少し削ったり楽器の音色などを変えたりするのはPCのほうが生の楽器よりも自由自在であるし、デジタルかつドルビーなので何回でもコピーしてやり直すこともでき、楽員や録音エンジニアらを拘束しないで好きなだけの時間で制作できる。

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2009年03月22日

伝統的な和人形

雛人形(雛祭りで飾られる)
五月人形(端午の節句で飾られる)
博多人形
市松人形
姉様人形(和紙人形)、色紙人形

操り人形 [編集]
人形浄瑠璃
ギニョール
マリオネット
パペット
ソックパペット - 靴下を用いる
マペット - マリオネット×パペット

人形の商標 [編集]
キューピー人形
バービー人形 - リカちゃん人形 - ジェニー
ブライス - プーリップ
ファービー
リビングデッド・ドールズ
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

その他特殊な種類の人形など [編集]
アンティーク: ビスク・ドール - からくり人形
民芸品: こけし - だるま - マトリョーシカ
着せ替え人形
フィギュア - スーパードルフィー(フィギュア的人形) - 球体関節人形
ダッチワイフ - ラブドール
呪術: 藁人形 - ブードゥー人形 - てるてる坊主(雲掃人形)

人形作家 [編集]
与勇輝
平田郷陽
川本喜八郎
辻村寿三郎
四谷シモン
天野可淡
恋月姫

人形に関連する概念 [編集]
ままごと
ぬいぐるみ
ドールハウス
ドールアイ - 人形の眼
人形劇
腹話術 - いっこく堂(腹話術師)
ドールズパーティー - 商業イベント名
浅草橋(東京の人形問屋街) - 松屋町(大阪の人形問屋街)

その他周辺概念など [編集]
玩具
像 - 仏像
キャラクター
ロボット

派生事項 [編集]
以下では「人形に題を取った作品」などを列挙する。 「人形を用いたテレビ番組」などについては人形劇の項を参照されたい。

地名 [編集]
東京都中央区日本橋人形町
かつて周辺で人形芝居が行われていた事や、人形を作るのに従事する人も多くいた事による。
埼玉県鴻巣市人形
ひな人形製造業者が軒を連ねていたことにちなむ。
人形峠
岡山県と鳥取県の県境に位置する峠。おとりの人形を使って化け物退治をしたという伝説による。

文学 [編集]
戯曲 『人形の家』(イプセン著)
童話 『ピノキオ』(カルロ・コッローディ著)
小説 『人形たちの夜』(中井英夫著)

音楽 [編集]
バレエ曲 『くるみ割り人形』 (チャイコフスキー)
童謡 『人形』(文部省唱歌)
童謡 『青い眼の人形』(野口雨情作詞)

『人形の家』 (弘田三枝子)
『Marionette』(BOØWY)
『pretty doll』(COMPLEX)
『蝋人形の館』(聖飢魔II)
『人形』(天野月子)
『人形(おもちゃ)』(香西かおり)
『人形』(大塚愛)

漫画 [編集]
『人形草紙あやつり左近』(写楽麿原作+小畑健作画)
『振袖いちま』(須藤真澄著)
『ローゼンメイデン』(PEACH-PIT著)
『観用少女』(川原由美子著)

映画 [編集]
マネキン (映画)(1987年) - マネキン2(1991年)
チャイルド・プレイシリーズ(1988年?2004年)

2009年03月07日

ヴィンセンス (軽巡洋艦)

ヴィンセンス (USS Vincennes, CL-64) は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の1隻。艦名はインディアナ州ヴィンセンスに因む。その名を持つ艦としては3隻目。

艦歴
ヴィンセンスは1942年3月7日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム造船で、フリント (USS Flint, CL-64) として起工した。艦の建造中の1942年8月に第一次ソロモン海戦で重巡洋艦ヴィンセンス (USS Vincennes, CA-44) が戦没する。その名を維持するため、フリントは1942年10月16日にヴィンセンスと改名された。1943年7月17日にアーサー・A・オズボーン夫人(元ハリエット・V・キンメル、重巡洋艦ヴィンセンスの命名者)によって命名、進水し、1944年1月21日に艦長アーサー・D・ブラウン大佐の指揮下就役した。
ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

就役後、ベスレヘム造船での艤装は2月末に完了し、まもなく海上公試が行われた。2月25日から3月末日までヴィンセンスは英領西インド諸島への巡航および整調巡航を行う。チェサピーク湾地域での短期間の停泊後、ヴィンセンスはトリニダード近海、主としてパリア湾で活動した。

整調後の修理および変更が行われた後、ヴィンセンスは第14巡洋艦隊の司令官、ワイルダー・D・ベーカー少将の旗艦となる。ベーカー少将はスタッフと共に4月14日に乗艦した。艦隊にはマイアミ (USS Miami, CL-89) とヒューストン (USS Houston, CL-81) も含まれた。ヒューストンはヴィンセンスと同様、戦没した同名艦の名を受け継いだ艦であった。

4月16日にボストンを出航し、パナマ運河を通過した後5月6日に真珠湾に到着した。翌週はハワイ海域で猛訓練を行う。訓練期間にチェスター・ニミッツ提督がヴィンセンスを訪問し、アリューシャン列島での砲撃作戦の功績によりヴィンセンスの将官達に海軍殊勲十字章を授章した。

整調および訓練期間の後、ヴィンセンスは5月24日に真珠湾を出航した。途中訓練を行った後、6日後にマジュロ環礁に到着する。その1週間後、マジュロを出航したヴィンセンスは第58任務部隊に合流する。高速空母を中心として形成されたこの強力な艦隊の指揮官はマーク・ミッチャー中将であった。

戦後
ヴィンセンスは6月16日に最後の一斉射撃を行い、その後オーバーホールのため帰国の途に就く。真珠湾を経由し、7月8日にメア・アイランド海軍工廠に到着、有効性試験が完了する8月末まで留まった。

オーバーホールの間の8月15日に日本は降伏し、太平洋戦争は終了した。ヴィンセンスはオーバーホール後の公試が終わると、8月29日にサンディエゴに移動し整調を行い、サン・クレメンテ島沖で回復訓練に入る。

その後、ヴィンセンスはマジック・カーペット作戦に加わり、水兵および海兵隊員を乗せて真珠湾と西海岸を往復した。「魔法のじゅうたん」任務は秋まで続けられ、続いてニューカレドニアのヌーメアで南太平洋軍司令官ポール・ヘンドレン少将の旗艦となる。10月25日にヴィンセンスはヘンドレン少将を乗せ、ガダルカナル島、ラッセル諸島、ツラギ島、エスピリトゥサント島、エファテ島を視察、11月5日にヌーメアに帰還した。この巡航期間にヴィンセンスはその名の由来となった同名艦が沈む地点を通過した。

ヴィンセンスは続いてニュージーランド海域へ2度の巡航を行い、その後300名の帰還兵を乗せて帰路に就いた。1946年3月23日にサンフランシスコで帰還兵を降ろし、ヴィンセンスは不活性化のためメア・アイランドへ向かった。

ヴィンセンスは1946年9月10日に退役した。1966年4月1日に除籍され、その後ミサイル実験の標的艦として海没処分された。

2009年02月18日

半装軌車

半装軌車(はんそうきしゃ)とは、前輪はタイヤ(車輪)、後輪の代わりにトラック(履帯)を持つ車両。履帯で駆動するが、前輪は駆動する物とそうでない物があり、また前輪で操行する物と、前輪が無くとも左右の履帯の速度を変えて操行可能な物もある。
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ハーフトラック、民間では半無限軌道式自動車とも呼ばれ、これに対し車輪の代わりに履帯を全面的に採用している車両を全装軌車、民間では無限軌道式自動車と呼ぶ。なお「ハーフトラック」のトラックは“truck”(貨物自動車)ではなく“track”(履帯)であるが、日本語での発音が同じため間違えられやすい。

また、この種の車両以外に、車輪を着脱可能な履帯で覆ったクリスティー T-3のような車両も、ハーフトラックと呼ばれることがある。

装輪車両に比べて路外走行性能が優れ、ある程度戦車等の装軌式戦闘車両に追随できるために、野砲、高射砲の牽引車・装甲兵員輸送車・偵察車・無線指揮車などとして幅広く使用された。

第二次世界大戦では主にドイツやアメリカ、フランスや日本で使用されていた。大戦時のイギリス連邦軍やソ連軍では、レンドリース法によりアメリカから提供されたM5及びM9ハーフトラックが使用された。

抵抗の大きな全装軌車は装輪式と同じ速度を出すために2倍以上の馬力が必用であり変速機もその馬力に耐える必要があるため「製造コストが高い」「信頼性が低い」「整備コストが高い」「稼働率が低い」「運転と整備の技術を習得するための時間が長い」などの問題点を抱えていた。これらの問題点は現代においては技術の進歩により解決されているが、当時の技術水準では未解決だった。

特にエンジン技術が未発達で現在よりも馬力の劣るエンジンしか無かった当時では速度と経済性を高める為には両方の長所を半分ずつ持った中間的なハーフトラック式が採用されることになった。 しかし、ハーフトラック式で完全に戦車に追随できる兵員輸送車を作ることには無理があり、技術の進歩と共に速度と経済性において全装軌車より優れるというメリットが消失していったこともあり、戦後は殆どが全装軌式となった。

Sd.Kfz.2(ケッテンクラート)
Sd Kfz 3(2トン積「マウルティア」=既存のトラック改造半装軌車)
Sd kfz 4(4.5トン積「マウルティア」=既存のトラック改造半装軌車)
Sd Kfz 6(5トン牽引車)
Sd Kfz 7(8トン牽引車、8.8 cm 高射砲の牽引で有名)
Sd Kfz 8(12トン牽引車)
Sd Kfz 9(18トン牽引車)
Sd Kfz 10(1トン牽引車)
Sd Kfz 11(3トン牽引車)
sWS (Shwerer Wehrmacht Schlepper、重国防軍牽引車)
Sd.Kfz.250(軽装甲兵員輸送車)
Sd.Kfz.251(中型装甲兵員輸送車)
Sd.Kfz.252(軽装甲弾薬運搬車)
Sd.Kfz.253(軽装甲観測車)

アメリカ陸軍の半装軌車
ケグレスハーフトラック(1925年フランス製)
ケグレス P.17(1931年フランス製)
カニンガム T1、T1E1(1932年)
カニンガム M1(1933年)
マーモン・ヘリントン T9(1938年)
ダイアモンド・T・モーターカー T14、
ホワイト・モーターおよびオート・カー M2、M3、M2A1、M3A1、M5、M9
M4/M4A1 81mm自走迫撃砲(M2に81mm迫撃砲M1を搭載)

2009年01月28日

野田城・福島城の戦い

野田城・福島城の戦い(のだじょう、ふくしまじょうのたたかい)は元亀元年(1570年)8月26日-9月23日 に行われた戦いである。三好三人衆が摂津国に侵攻し野田城、福島城を占拠して守備を強化した。これに対して織田信長が追討に動いたため、一時期籠城を強いられるなど劣勢に立たされるが、石山本願寺軍が加勢し、続いて浅井長政、朝倉義景連合軍が、森可成の守備する近江・坂本に侵攻、京・山科の境を侵すに及んで、織田方は一旦兵を退かざるを得ず、三好方が勝利した戦い。この後11年にわたって石山合戦が続く最初の戦いで別名「第一次石山合戦」とも言われている。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

元亀元年(1570年)6月28日姉川の戦いで勝利した織田信長は岐阜城に帰城した。この機会を逃さなかった三好三人衆は兵をあげた。本圀寺の変で大敗した三好三人衆ではあったが、その後も虎視眈々と織田信長打倒を画策していた。この時、三好三人衆には3つの目算があったのではないかと『戦国合戦大事典』では解説している。ひとつは近江国(近北)の浅井長政、もうひとつは越前国の朝倉義景、更に摂津国石山本願寺の顕如らと通じあって、織田信長を打倒するため三好三人衆がまず兵をあげたのではないかとしている。

浅井長政画像
朝倉義景画像
顕如画像

石山合戦配陣図の野田城、福島城周辺部分の拡大図
三好義継像同年7月21日、三好三人衆軍は摂津国の中嶋に進出し、野田城、福島城を築城した。野田城、福島城とは中嶋の戦いで浦上村宗が野田と福島の地に陣をひいたのが初見で、現在は都市化され、野田城は石碑がある程度で城跡の名残は殆ど見受けられない。福島城に関してはその場所すら確認されていない城で、現在とは大きく地形が変化している。当時この地域は、西側が海と面し北、南、東の三方向は川に囲まれ、石山合戦配陣図によると島のような場所であったと推定されている。そのような場所に、堀を掘りなおしたり、壁をつけたり、櫓を建てるなどの改築を実施した。また細川信良軍や紀伊国の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も続々と到着し、『松井家譜』によると、この時の総数は1万3千兵までに膨れ上がったようである。この雑賀衆というのは、水兵、鉄砲兵からなる傭兵部隊で『戦国鉄砲 傭兵隊』によると三好三人衆軍に属していた安宅信康に雇われた私兵ではなかったかと推察している。

足利義昭画像この動きに、織田信長軍で一番早く即応したのが松永久秀、松永久通の親子で大和国の信貴山城で戦闘準備を整え、同年7月27日には信貴山城を出立、河内国に入国し三好三人衆軍の河内国侵攻に備えた。また同年8月2日将軍足利義昭は畠山昭高に御内書を送り、織田信長と合力し紀伊国、和泉国の兵を集結させ三好三人衆軍に対処するように命じた。

このような状態の中、同年8月17日開戦の口火は三好三人衆軍より始まった。三好三人衆軍は三好義継の城であった古橋城を攻城した。ここには三好三人衆軍への討伐軍の前線基地のような役割を果たしていたと思われ、この時『細川両家記』によると三好義継軍150兵、畠山昭高軍150兵、合わせて300兵程度が集結していたと記載されている。また『尋憲記』には400兵とも記載されている。野田城、福島城を出立した三好三人衆軍は古橋城を攻城し、かなりの激戦だったらしく『細川両家記』によると、この時の首級が218と記載され古橋城兵はほぼ全滅に近い損害であった。その後榎並城も攻城したようである。

この報を受けた織田信長は、ことの重大さを再認識し自ら三好三人衆を討ち取るべく、同年8月20日精鋭の馬廻り衆3千騎を引き連れ岐阜城を出立、翌日には横山城、さらに翌日には長光寺に、翌23日は本能寺に到着した。『言継卿記』によると京にいた時の織田信長軍は4万兵まで膨れ上がったようである。その後、休息もそこそこに25日京都を出立、枚方を経由して翌26日には、野田城、福島城から南東5kmの天王寺に着陣したのである。これに対し三好三人衆軍も、三好康長、安宅信康、十河存保、斎藤龍興等の阿波国、讃岐国、淡路国からの援軍が続々到着し、この時の総数を『信長公記』によると8千兵ほどとしている。

石山本願寺の復興模型
織田信長像織田信長軍の配陣は、本陣を天王寺に置き、天満が森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、浜の手に陣取り、主力は天満が森で摂津国の地理に詳しい三好義継、松永久秀、和田惟政らを配した。このような広範囲に配陣したのは石山本願寺への牽制の意味もあったのではないかと『戦国合戦大事典』は記している。三好三人衆軍と比べて織田信長軍は数倍の兵力があったと思われるが、野田城、福島城がデルタ地帯にある堅城であった為、いきなり力攻めとはしなかったようで、まずは誘降戦術をとり『尋憲記』によると同年8月28日細川昭元をはじめ三好政勝、香西佳清らが織田信長軍へ寝返ったようである。

同年9月3日『言継卿記』によると将軍足利義昭が奉行衆2千兵を引き連れ、細川藤賢のいる中嶋城へ着陣する。将軍自ら前線に立つ例が無かったわけではないが、当時としても異例と思われている。この時、足利義昭と織田信長の仲はそれほど険悪なものではなく、摂津国の状況を逐一織田信長へ報告していたのが足利義昭で、出軍を要請しており自らも関与すべきと考えたとも思われている。また三好三人衆には兄足利義輝を永禄の変で殺害されおり、本圀寺の変では自身も殺害されかけ、不倶戴天の敵であったためとも思われている。織田信長が将軍足利義昭の出陣を要請したとも推察できるが、『信長の天下布武への道』では「足利義昭の出陣はどうやら自分の意志だったようである」と解説している。何れにしても将軍自らが出軍することによって、織田信長軍は親征軍として建て前が設立する。

このような中、中立を保っていた石山本願寺の顕如が一通の檄文をしたためていた。その内容は、

“ 信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべらず候なり。あなかしこ。

江州の門徒衆に向けた顕如の檄文/明照寺旧蔵
とある。この檄文は同年9月6日に江州中部(近江国)の門徒衆に宛てたもので、石山本願寺を破却する事に大きな不満を持っていたようで、わざわざ「身命をかえりみず」と記していることから、戦闘態勢を整えていたのではないかと推察されている。9月10日も浅井長政、浅井久政親子に書状を送っている。

口径が大きい火縄銃
松永久秀画像織田信長軍は野田城・福島城の対岸に「楼岸の砦」と「川口の砦」を築き、それぞれに織田信長軍の武将を入れ、環境が整った同年9月8日、野田城・福島城の西の対岸にあった浦江城(別名、手好城、海老江の砦)を三好義継、松永久秀隊が攻城した。この時火縄銃以外にも大鉄砲が用いられたのではないかと思われている。大鉄砲とは通常の火縄銃に比べて口径が大きく主に攻城戦や海戦に使用されたと言われている。そのような兵器を使い三好義継、松永久秀隊は浦江城を落城させ、野田城・福島城の攻城の砦とした。織田信長軍は更に川を埋め、対岸に土手を築き、櫓を上げ、同年9月11日より野田城・福島城への直接的な攻城が開始され城兵の首級が7つ上がり、翌12日は更に鉄砲を使用した大規模な攻城戦となったようである。

この日別動隊が織田信長軍に加わった。『信長公記』によると、雑賀衆・根来衆の2万兵(内、鉄砲衆3千兵)からなる大連合軍が遠里小野、住吉、天王寺に陣取った。大規模の援軍を得た織田信長軍は三好三人衆軍との間で激しい銃撃戦となり、この時の様子を、

“ 御敵身方の鉄砲誠に日夜天地も響くはがりに候

と『信長公記』は伝えており、その後畠中城も落城させた。三好三人衆軍にも鉄砲があったと思われているが、野田城、福島城に入城している鈴木孫一等が率いる傭兵雑賀衆にも、かなり数の鉄砲が存在していたと思われている。『戦国鉄砲 傭兵隊』によると、2万兵からなる雑賀衆・根来衆は足利義昭の要請に応じた畠山昭高がおくりだした援軍で、「天地も響く」と言われる銃撃戦は傭兵雑賀衆と雑賀衆・根来衆連合軍が戦った可能性を示唆している。

浦江城、畠中城が落城し、目の前には砦や櫓がいくつも建てられ、2万兵からなる雑賀・根来連合軍が合流すると、さすがに三好三人衆は浮足立ち、織田信長に和平を申し込むが、織田信長は徹底攻撃を主張し和平案を受け入れなかった。この時まで堅城を誇る野田城・福島城に若干手を焼いているものの、大勢は織田信長軍の有利に変化なく和平案の拒否は当然と思われている。しかし、この日の夜半から戦況は大きく変化する。顕如軍が戦線に参加するのである。『細川両家記』によると、

“ 九月十二日夜半に寺内の早鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり。信長方仰天なく候

織田信長が仰天したかは定かではないが、石山本願寺が鐘を打ち鳴らし織田信長軍に襲いかかったようである。石山本願寺は福島城まで約4kmに位置する。顕如軍が参戦したことにより、三好三人衆軍の士気は盛り上がり、翌9月13日早朝、織田信長軍がせき止めていた防堤を打ち破ったようで、この時の状況を『細川両家記』によると、

“ にわかに西風が吹いて西海より高塩水が噴き上がり、淀川逆に流れたり。(中略)信長方の陣屋とも、ことごとくつかり、難儀に及ぶよしに候

としている。浦江城だけではなく、野田城・福島城を周りを取り込んでいた砦も海水に浸かってしまったと思われている。また『信長公記』によると同日夜には顕如自ら鎧を着て織田信長軍の本陣に襲いかかり、「楼岸の砦」と「川口の砦」には石山本願寺から鉄砲を撃ちかけたようである。

翌14日は海水がなかなか引かず、翌15日から17日までは鉄砲による攻撃が出来ず大規模な戦闘にはならなかったようで、和平の機運となったが、またしても織田信長が拒否した。ここで時間的余裕をあたえれば、諸国の門徒衆が集結するのを恐れたためではなかったのかと『戦国合戦大事典』は解説している。交渉が決裂した後、9月20日『足利季世記』によると、顕如軍が織田信長がいる森口へ5千-6千兵で襲いかかった。この時、野田城・福島城へ攻城していた部隊が本陣不利とみたのか、取って返し石山本願寺と森口の中間地点に割って入り功名をあげたようである。この時の戦いでは織田信長軍の損害は軽微だったようである。

二条城しかし同じ頃、近江国で浅井・朝倉連合軍が信長の背後を突くべく進軍を開始。この知らせを受けた宇佐山城主、森可成は野府城主・織田信治、青地茂綱らと共に交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖して連合軍の進軍妨害を試みる。そして9月16日に緒戦においては連合軍を撃退する。しかし本願寺顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが浅井対馬・玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったためついに崩れ森可成、織田信治、青地茂綱の3人は討ち死にする。

そして浅井長政、朝倉義景連合軍は総数3万兵で宇佐山城を攻城、守備兵は1千兵という少数であったが各務元正、武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門が奮闘し辛うじて持ちこたえていた。翌21日には連合軍は京の山科方面まで出軍してきた。織田信長軍は、明智光秀、村井貞勝、柴田勝家を二条城に派遣させ守備させた。

翌日の22日の浅井長政の書状には、

“ まず坂本に至って着陣候。一両日中に京都へ罷り上るべき相談、半ばに候。野田、福島いよいよ堅固に相聞こえ申し候。一途ほど御座あるべく候。御心易く思召され候

とあり、石山本願寺や三好三人衆と連携していたと伺える。『言継卿記』によると同日、柴田勝家が織田信長の本陣に出向き、京に戻るように進言したと思われている。

織田信長軍は翌9月23日、全部隊に撤退命に出し、足利義昭ともに帰京し、その夜には京に陣を構える事になる。

野田城、福島城の戦いの配陣図/大阪城天守閣蔵

戦後の影響
延暦寺の東塔三好三人衆軍は9月27日、篠原長房、三好長治らを総大将に、2万兵からなる大援軍が兵庫に到着。翌28日、織田信長軍に属していた瓦林城、越水城の城主瓦林三河守を討ち取り、10月1日に野田城、福島城に入城する。ここに至って織田信長は、三好三人衆、顕如、浅井長政、朝倉義景連合軍と和睦を模索する事になる。足利義昭は三好三人衆に対しては敵対心があったようではあるが、顕如に対しては開戦当初から一貫して和平を求めており、織田信長はこれを利用し朝廷工作を実施し、正親町天皇より「講和斡旋を希望す」という言を得て、同年11月30日に各陣営で話し合いが行われ、同年12月14日に和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢連合軍も撤兵する。

この戦いで大敗した織田信長は、浅井長政、朝倉義景、六角義賢連合軍の討伐にしばらく忙殺される事になる。一方、織田信長に土をつけた形になった、顕如率いる石山本願寺と三好三人衆は、摂津国を統治する事となる。特に石山本願寺は反織田信長の総本山のような存在となり、諸国から一目おかれる存在となっていき、その後11年間にわたり石山合戦という長い戦いが開始されるきっかけとなる。

開戦当初は織田信長軍に属していた雑賀・根来連合軍であったが、石山本願寺と同じ浄土真宗の門徒であったため、『戦国鉄砲 傭兵隊』によると、石山本願寺が参戦後、すぐには入城しなかったが、本格化な籠城戦となっていくと、鈴木孫一らが率いる傭兵雑賀衆と行動を共にし、石山本願寺へ入城し織田信長の手強い敵対勢力となっていく。

一部の文献によると、「野田城・福島城の戦い」の織田信長軍の兵力が「不明」との記述が見受けられる。これは古文献によって総数に開きがあるからで、『言継卿記』では2-3万兵、『足利季世記』や『細川両家記』では3万兵、『尋憲記』では6万兵と記載されている。これに対して三好三人衆軍は、『言継卿記』では5-6千兵、『信長公記』では8千兵、『多聞院日記』では1万余、『尋憲記』では1万3千兵と、こちらもかなりばらつきがあるが、当事者の記録を尊重して『信長公記』による8千兵説が採られる事がある。織田信長が着陣してからも、両軍に援軍が到着しており、正確な兵数の把握は当時も難しかったと思われている。
『陰徳太平記』によると、雑賀・根来連合軍は実は石山本願寺と結託して織田信長軍の背後を襲うべく時期をうかがっていたとしているが、『戦国鉄砲 傭兵隊』によるとこの記述は「お話」として捉えており、信憑は低いと思われている。

火縄銃鉄砲を集団的に使用した最初の戦いは長篠の戦いで3000丁の「三段撃ち」が有名であるが、『戦国鉄砲 傭兵隊』では鉄砲を集団で使用したという点では、それより5年前にさかのぼる「野田城・福島城の戦い」が最初ではないかと解説している。『信長公記』等に記載されている雑賀衆・根来衆の鉄砲3千兵がどこまで正確かは不明だが、織田信長軍、三好三人衆軍、傭兵雑賀衆等の鉄砲を合わせると、かなりの数がこの地域に集中していたのではないかと推察されている。それらが野田城・福島城や周辺の砦や櫓から鉄砲を使った攻城戦が繰り広げたのではないかと思われている。
また雑賀衆の佐武伊賀守なる人物が後の石山合戦で、櫓にあがり、撃ち手となり他の5名が弾丸をこめ、堀などを渡って突破しようとする敵を確実に仕留めていった。佐武伊賀守のみがこのような戦術を実施したわけではなく、「野田城・福島城の戦い」でも用いられていたと推察でき、『戦国鉄砲 傭兵隊』によると、このような戦術ノウハウを雑賀衆・根来衆が共有し有能な鉄砲集団となっていったとしている。
中立を維持していた石山本願寺が何故決起したか、それは織田信長が石山本願寺の破却を命じたとも推察できるが、『一向一揆と石山合戦』では、三好三人衆に味方したためではないかと解説している。本願寺門徒が大和国に道場を建てようと試みた時、三好三人衆の一人岩成友通が助力したとの記述が『多聞院日記』にある。最終的に大和国の寺社からの激しい反対にあって断念したが、この時に岩成友通が熱心に助力していたため、三好三人衆に対して好印象を持ったのではないかとしている。

六角義賢の書状/個人蔵
上記書状は六角義賢の書状で、宇佐山城を攻城し織田信治と森可成以下数百名を討ち取ったことを浅井方に知らせるために、地元の土豪市川吉澄が船を用意した事に対して礼を述べている。2行目と3行目に「森三左衛門尉以下数百人討死」との記載が見られる。その後、六角義賢は比叡山に立てこもることになる。六角氏と浅井氏は長らく対立していたが、この時は反織田信長で協調し、浅井長政、朝倉義景連合軍に従軍していたと思われる。

2009年01月20日

クイズ (quiz)

クイズ (quiz) とは、出題者が既知の事実に対して質問をし、解答者がその質問に答えるという遊び、あるいはその質問のこと。

解答者の答えが出題者の用意していた答えと一致すれば正解、一致しなければ不正解である。

多くの場合、解答者は複数いて、正解数を競ったり、正解することで得られる得点を競ったりする。本来は教師が生徒に対して行う簡単なテストを意味したが、現在は前述のような遊びを意味する。狭義には知識を問うものをクイズというが、思考力を問うパズルや言葉遊び、なぞなぞなどもクイズの一種とみなされることがある。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

quiz という単語の起源に関しては、1791年(あるいは1790年)に、アイルランドのダブリンで劇場支配人をしていたデイリーが、無意味な新語を作ってそれを流行させられるかどうかという賭けを友人と行ない、町中のいたるところに"quiz"と落書きをしたことからダブリン中に広まり、ついには辞書にも載ったという説が知られているが、単にラテン語の quis(何)に由来するとも言われる。一方、フジテレビのクイズ$ミリオネアでは"あなたは誰?"(Qui es-tu?)に由来すると、独自の解釈を呈示している。

日本における事例
第二次世界大戦後の1946年12月にNHKのラジオ番組『話の泉』、翌1947年11月には『二十の扉』というクイズ番組が登場して人気を呼んだ。以降、テレビ番組では数多くのクイズが行われ、『パネルクイズ アタック25』(朝日放送)、『クイズダービー』(TBS)、『アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ)、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(同)、『マジカル頭脳パワー!!』(同)、『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)といったクイズ番組が放送された。

近年では、クイズを企業活動の広報戦略や販促戦略に活かすビジネスブランディングツール、マーケティング戦略の一手法としての考え方が登場し、多くの企業に導入され始めている。

また、テレビ局などではなく、一般のクイズ好きが主催する「オープン大会」と呼ばれるクイズ大会でも、本格的な早押しクイズなどが行われている。最近では高校生によるオープン大会も数多く開催されている。

更に派生して、コンピュータゲーム、アーケードゲーム、家庭用ゲーム機のソフトにおいても「クイズゲーム」に分類されるものが多く販売・稼動されている。本格的なものから、クイズ番組をゲーム化したもの、そしてある特定のジャンルに絞ったものまで千差万別である。現在では、オンライン対戦を利用したアーケードゲーム『クイズマジックアカデミー』や『ネットワーク対戦クイズ Answer×Answer』が有名であろう。これら最近の作品は、これまでのクイズゲームの(致命的ともいえる)欠点であった「時代の変化による問題の風化」をアップデート機能によって克服することに成功している。